松山支部
愛媛県松山市周辺にお住まいの方
第371回松温会例会
「第371回松温会例会」を開催
平成28年6月16日(木)正午より、いよてつ会館にて「第371回松温会例会」が開催され、初参加2名を含む37名の卒業生や大学関係者が参加した。秋川会長より「昨年6月神森元学長に『回顧・松大の戦後70年』と題した戦後大学の70年について話をしていただいた。今回沖縄決戦の貴重な体験をされている比嘉清松元学長に卓話をお願いした。先般の軍属による殺人事件もあり、40数年たってなお、忌まわしい事件が起こっている。私自身大学入学時が沖縄返還の年だった。本日の比嘉先生の話を元に戦後について考えるきっかけにしてほしい」との挨拶があった。以下
「わが8月15日」 比嘉清松先生よる卓話
私は、11年ほど前に松山大学を退職いたしまして、松山と沖縄を往復する機会が増えてまいりました。それを機に、故郷沖縄の事を考えたり、沖縄と愛媛を比較してみたり、沖縄と日本と考えてみたりしています。現役の時は雑務に追われてそんな事を顧みることがなかったように思います。64年前、当時アメリカの占領下にあった沖縄を発って、初めて日本に留学した頃のことがしきりに蘇ってきます。それが私の人生の原点、スタートでした。当時、パスポートをもって留学してきました。文部省から大学で学ぶ機会を与えられ、それ自体は大変有難い事ではありましたけれども、なぜ留学なのか。なぜパスポートなのか。それをもたらした沖縄の歴史的な現実について勉強しなければならないと考えたものです。そんな沖縄を発った64年前がしきりに思い出される昨今です。
そんな折、28年2月に温山会沖縄支部総会が開かれました。テーブルを囲んだ座談会で、沖縄の事、戦時中の事など私の方から話しましたところ、後日温山会事務局から私の戦時中の経験の話をしてもらえないかと依頼を受けました。私の個人的な体験談、身の上話、ちょっとためらいました。しかし、タイトルにも挙げました「『わが8月15日』ー1人の少年が見た沖縄戦ー」と題してお話しします。
今年は太平洋戦争開始(真珠湾攻撃)から75年、そして終戦(敗戦)から71年。6月、沖縄は慰霊の月。6月23日は沖縄戦の組織的な戦闘が終了した日です。昨年は、戦後70年という事で様々な所で当時の日本のことを語る機会がありました。時には、国内外で激しい、厳しい議論が呼び起されたように思います。これは今年に入っても続いているように思います。御承知の通り、天皇皇后両陛下はずっと慰霊の旅を続けておられ、先年のサイパン・パラオに続き、フィリピンご訪問。フィリピンでは50万もの日本の兵士が亡くなっております。同時に、フィリピンの国民も100万人以上の人が戦争でなくなったとされております。両陛下は日本兵だけではなくて、フィリピン人の慰霊、これをずっと各地でなさっています。やはりずっと戦争、戦後の問題は問い続けられていると感じます。
今年5月末に、オバマ大統領が広島を訪問された。この問題とどう向き合うのか改めてつきつけられたように思います。私はときどき本屋を散策しますけれども、ざっと見て、特に雑誌コーナー、あの時代、あのテーマの記事が氾濫しているように思います。いろんな立場から書かれているのだが、やはり問題を抱えているんだなということを感じます。なぜ太平洋戦争なのか、なぜ沖縄戦なのかということにつきまして、私は、昭和2ケタの最初の生まれで、あの戦争を体験し戦争を記憶する最後の世代の一人であります。今話をする責務を感じています。
沖縄は日本の縮図である。沖縄を通して日本を知ることができる。沖縄をみていたら日本がわかる。そんな風に思います。昭和9年の一例を紹介しますと、その時の石井虎雄司令官が、当時の沖縄の事を分析して陸軍次官に極秘報告をしている。沖縄は多くの島々からなった海洋県。したがって外敵から守るには非常に難しい。生活物資(基礎資源)を外部に依存しており、台風や海上封鎖に弱い。守るには強大な海軍力が必要となる。沖縄がひとたび突破されれば日本軍、本土防衛は危うくなる。そして、最後に沖縄の県民性についても触れている。「従順にしてよく困苦欠乏に耐え、強大なる統制下においては、意外に大事を決行し得る。ただし忠誠心に疑念があり、ひとたび不利な状況になった場合に心配だ」と分析している。このことは、その後の沖縄戦の悲劇、戦時下の惨劇を予期せしめるもののように思われる。例えば、集団自決はよく知られていますが、各地に配置している残置諜報員は孤立しているので、土壇場、敗戦間際になって、疑心暗鬼となって住民にスパイ容疑をかけ処刑するという惨劇が各地でありました。極限状況になった時の人間のひとつの姿を見る思いがします。
地政学的・歴史的に、沖縄は古くからボーダーレス、あるいはグローバル化の先陣地域であったように思います。歴史上日本で起きたその状況は、先行して沖縄で起きたということができる。例えば戦国時代に日本人は南方へ進出し、山田長政というヒーローが誕生した。実は、その200年前にもあの一帯で琉球人は活動していたのです。幕末期もそうでした。或いは太平洋戦争時もそうでした。沖縄は日本全体のモデルで、沖縄を通して日本の状況がわかるように思います。海洋県沖縄。日本列島は、北は宗谷から南西部は与那国島まで約3,000キロに及ぶ。琉球列島は、東は南大東島、西は与那国島、その距離約1,000キロ。南北約400キロ。広大な面積はざっと日本の国土の約三分の一。日本列島の相似形といいますか、地政学的な構図が昔も今も続いています。こういう状況からこのタイトルでお話しを申し上げるということにしたわけです。
私は沖縄戦の専門家ではありません。以上を前提に私自身の体験を掻い摘んでお話をしたい。
沖縄戦では、本島中部から米軍が上陸して南下した。日本軍の司令部は首里から、南に撤退をするコースをたどった。そして、米軍は島を分断しながら南下していく。従って、南部が激戦地で、後は敗退を重ねて追い詰められていく。
3月末に慶良間諸島上陸。本島上陸は4月1日。アメリカ軍は50万を超すという大軍。艦艇が1,000隻以上。攻めてくるアメリカ軍は物量に任せて、大軍で集中的に攻撃してきた。日本軍がアジア一帯に戦力を分散させており、負けるべくして負けた。ガタルカナルがそうであるように、戦力の逐次投入という戦術面での失敗もあった。アメリカ軍は直前に硫黄島で手痛い損害を受けた。日本軍は硫黄島で防空壕を掘って上陸する米兵を待ち受ける作戦。あの小さな島での苦戦を教訓に、沖縄戦では爆撃と艦砲射撃を徹底的に10日間ほど繰り返し行った。上陸地点での抵抗、戦闘はあまりなかった。したがって、上陸時米軍の戦死者は140~150名だったでしょうか。
首里城の下に防空壕を造ってそこへ日本軍の牛島司令官がいた。5月に入って激戦を乗り越えてシュガーローフの戦い、激戦地ですね。100エイジェン取ったというのを10回くらい繰り返した。皆様今、沖縄に行ったら、国際通りの東へ行って突き当りに山があります。高台があります。あの一帯にシュガーローフの激戦地があります。軍司令部は南部へ撤退するかしないか論議があったようですが、撤退することによって民間人の戦死者が増えるということ、つまり民間人を巻き添えにしてしまうということになった。
沖縄戦開戦直前にたぶん米軍は台湾に来るだろうと想定し、約20,000人の正規・精鋭軍を沖縄から台湾に移してしまう。その結果戦力が足りないという事で、現地沖縄の民間人20,000人以上補い、急拠間に合わせ徴用した。沖縄南西諸島一帯に当初は基地をいくつも造って、北上してくる敵を迎え撃つという作戦、日本は本土決戦を考えていたので、捨石作戦で時間を稼ぎ、できるだけ敵を消耗させるという作戦だったが、結果は見えていた。西海岸に上陸する本隊によって、水平線全部が艦船に埋め尽くされていたという目撃者がいるほど、大量の艦船が押し寄せた。アメリカ軍も12,000人が戦死している。最高指揮官バックナー司令官も、前線視察のとき狙撃されて戦死している。一週間前に、牛島司令官に降伏しなさいと文書を送っている。「貴下はよく頑張った。これ以上頑張らなくていいだろう」という有名な言葉を残している。ビラも撒いている。沖縄戦の組織的な戦闘は6月23日に終了するわけです。牛島司令官は「自分は自決するけれども各員各地でそれぞれ戦いなさい」と言い残している。そういうことで、8月15日後まで続いているし、沖縄戦の正式な戦争の終了は、9月7日なんです。
こういう沖縄戦の中で私は糸満、最後の激戦地の2~3キロの場所にいた。糸満は沖縄で最大の活気のある漁師町。漁師町ですから人は時には荒く、言葉も那覇とは違う。早口で荒っぽい。しかし、気っ風がいい。豊漁の時は接岸してとってきた魚を投げるのを待ち受けて子供はとって、そこでさばいて海水につけて食べる。そんな雰囲気の町。思い出として、魚市場に時々そこに捕ってきた大きなウミガメがひっくりかえっていて、足をばたばたさせている。見たら目からひとすじの涙を流している。子供の頃はそう見えるんです。ウミガメは陸に上がると目を保護するために液を出すことをあの時は知りませんでした。可哀想に「昔昔浦島は助けた亀に・・・・・♪」なんとかならないだろうか。そのようなのんびりした、束の間の平和な時代だったように思います。
そんなある日登校すると校庭に「大舛大尉に続かん」と大きな立て看板が立てられている。ガダルカナルで戦死した沖縄の与那国島出身の大舛大尉に続こうという、戦意高揚の立看であった。
またある日戦争が近づいてきて、中国大陸から日本兵が南下してきてその途中寄って、学校の校舎、兵舎やグラウンドが軍人の訓練場になり、身近に軍人がいる兵隊を見る機会があった。その中で忘れられない光景は、ある時、休憩中の若い兵士が、木陰で休んでいて本を読んでいた。そっと近づいて見ると、茶表紙の単行本の岩波文庫だったように思います。寸暇を惜しんでひたすらその書に目を落としている姿。しばらくしてかすかに笑いを残して立ち去っていった。学徒出陣兵だったのでしょうか、忘れられないシーンでした。或いは、昭和18年山本五十六司令長官が亡くなった。あの当時学校では飛行機事故と教えられました。或いは、戦死者がでると我々は戦死者を迎えてその葬儀に参列する。普通は沈んだりするのですが、ヒーローを送るような感じ。送って皆が解散した後に残された父親が墓前で、誰もいなくなったところで号泣していた。
いよいよ町には戦争の空気、気配が町に氾濫する。ご承知の通り「欲しがりません。勝つまでは」とか「勝利の日まで」「鬼畜米英朽ちてしまえ」とか言われた。
「欲しがりません・・・」は、募集して第一席になったのが、小学校5年の女の子が作ったこの標語でした。戦後20年たった時お父さんが作ったらしいという事がわかったのですが。いよいよ身近に戦争が来ていると。学校に登校する時も隊列を組んで4列縦隊「整列。歩調をとれ。前へ進め」歌を歌う。「時今だ、決意に燃えて、米英の命根こそぎ撃ちてしやまん♪撃ちてしやまん♪撃ちてしやまん」こんな調子でした。ある時学校の掲示板をよく見ると、細く長い紐に吊らされたピンポン玉ほどの頭状のものが2本垂れ下がっている。玉はルーズベルトとチャーチルの顔が描かれている。玉をポーンと弾くと、玉は壁に当たってあちこちに弾き返ってくる。子供の敵愾心を煽る仕掛けとなっている。私は東条首相の似顔絵を描き、先生からお褒めの言葉を頂いた。また、米兵残忍狂暴で臆病だと上級生から教え込まれる。米兵が鰐を捕獲するために、捕虜を河辺に縛っておとりにする。 こんな状況でサイパンが陥落。
私の父が校長をしており、校長の役割は、御真影(天皇皇后の写真)をいろんなセレモニーの時御真影を出して礼拝する。校長の最大の任務は御真影を守ること。したがって沖縄戦が始まると、指令が出てこれを守って北部山岳地帯へ持っていけということになった。米軍が上陸する前に行かなくてはならない。着の身着のまま向かっていった。途中、日中は爆撃があるので防空壕におり、夜移動する。だいたい一週間くらいかかって到達した。行った先々で爆撃を受けることが4日くらい続いた。辺野古にたどり着いたあたりで、とうとう私はお母さんに「もう沖縄はどこへ行っても同じだよ。逃げるのやめよう」と言った。
ここで山中に入って戦闘から逃れた。そこから始まるのは飢餓との戦い。食べ物がない、ソテツを食べた。安部(あぶ)というところでアメリカ軍の捕虜になる。極限状況、飢餓状態で捕まった。収容されるというか。2~3年前50数年振りにここを訪ねてみたが、昔とあまり変わっていない。そこで捕まって収容所につれて行かれるのだが、軍国少年どこへ行ったという思いでした。茫然自失といいますか、ジープから我々に向かって「Hey Harbor Harbor」としきりに言う。そして子供たちに言うのと同じように「Harbor Harbor」と返すと、キャンディを投げ与える。それを拾い集める。この光景は忘れることができません。浅草・浅草寺の餅まきとはわけが違う。ある種の屈辱を投げ与えられた。「Harbor」とは何か。「PearlHarbor・真珠湾」なんです。彼らは「Remember Pearl Harbor」を合言葉に攻め入ってきた。敗戦の屈辱、茫然自失こんな状況でした。収容所は最低限の食糧(米とかんづめ)が確保でき有難かった。
学校らしきものが再開される。何もありません。海岸の砂浜に集められて、学年編成されるも、ノートや鉛筆もありませんので、先生が砂にアルファベットの「A」と書いた。我々も指で砂に「A」これが初めて砂に書いたレターでした。ある日アメリカ軍の兵が一斉にはしゃいでいる。「Victory」日本の敗戦8月15日でした。勿論そんなことは知る由もない。これが戦後の始まりでした。長いアメリカ軍の『占領』の始まり。激しい戦闘下、飢餓に耐えて生き残ったのは、偶然というか運というか、幸運というか。理由はいろいろあります。南の方に留まっていれば駄目だったんだろうと思う。或いは、行った先々で日本軍に会わなかったのが幸いした。最初、父は護身のために日本刀を持っていた。何か来たら戦う、抵抗するつもりだった。ところが最後は極限状態だったので力がなくなった。そういう状況でアメリカ軍に捕まった。こういう幸運が重なったんだろう。わが身の安全、幸運を喜んでばかりはいられません。生き残った者の責務は時と共に大きくなる。
あの戦争はいったい何であったのか。何をもたらしたのか。何故起こってしまったのか。当時の子どもから見ると衝撃で人間の生身の姿。平時の人間、戦時の人間の落差の大きさ。日頃は何でもないことが土壇場になるとまるで違う。大岡昇平の戦記文学の傑作「野火」の中に絵が描いてあります。獣が人間の姿。これは子供にとっては、人間不信の何物でもない。それは人間の弱さ、そういう状況に追い込まれることに問題があるという事を理解するには時間を要した。戦争体験から学ぶことがあるとすれば、体験を通して人の体験を理解する、俗にいう、「わが身をつねって他人の痛みを知る」という言葉があるが、アジアの人々、遠くヨーロッパの人々を始め、世界各地の人々に体験に思いを致し、想像するための追体験となった。そういう中で、生き伸びたわけですけれども、もう暫く頑張っていきたいと思っています。