柔実会会長挨拶『人生は試合の連続』

更新日:2015年5月11日

カテゴリ:同窓生情報

柔実会 二宮会長 平成26年4月の柔実会(松山大学柔道部OB会)総会において関谷幸男会長の後任として不肖私が後任の6代目会長に選任され柔実会のお世話をさせて戴く事となりました。柔実会とは松山大学柔道部のOB会を言います。柔実会では昭和6年の卒業生から現在に至るまで約450名の会員がいます。昭和12年から昭和15年まで高商・高専(大学の前身)大会で全国制覇を4年連続成し遂げています。中四国学生柔道大会では常にベスト4に入賞し過去19回の優勝経験があります。私の年代は2度の優勝経験があります。私の人生は柔道部抜きでは語れません。自己紹介の意味で私の柔道部にまつわる経歴を紹介させて戴き、後輩たちの参考にして頂ければありがたいと思っています。

 

私は愛媛県東宇和郡、現在の西予市宇和町の農家の次男として生まれました。宇和中学校柔道部・八幡浜高校柔道部を経て昭和45年松山商科大学に入学しました。昭和45年といえば藤井徳二郎先輩(初代会長)の尽力で柔実会が発足しています。昭和49年藤井徳二郎先輩の紹介で私は株式会社四電工に就職しました。同期の福島副会長も藤井先輩の引きでシャトーテル松山に就職しています。昭和51年藤井先輩が支配人をされていたシャトーテル松山(当時松山市唯一のシティホテル)において私達夫婦は結婚式を挙げました。比嘉清松先生(のちの松大学長)を来賓に招き、媒酌人を八木隣一柔道部監督にお願いしました。

就職先の四電工では高知支店・高松本店勤務を経験し、昭和52年26歳の時、愛媛支店営業部に配属となりました。藤井徳二郎会長の事務局であった山本勝利先輩の後任として柔実会の出納係を担当させて戴きました。福島君は若くしてシャトー企画設計事務所の責任者(その後社長)となっていました。

柔実会2代目会長水口義寛先輩が東邦相互銀行の社長をされていました。川中秀夫先輩が伊予信用金庫の理事長をされていました。柔実会3代目会長となる柳沢正三先輩(後に県議会議長)は若くして愛媛県県議会議員に当選されていました。

そんな先輩たちの指導でサラリーマンをしながら34歳で一棟目のマンションを建設しています。その後平成2年38歳で四電工を円満退職し、現在の株式会社住宅情報館を創業しました。37歳創業時にはもうすでに四棟のビルを建設していました。四電工関係や松山大学OB会(柔道部の先輩や福島君)を仕事のエサ場として経営を立ててまいりました。松山大学と四電工は私にとって心のよりどころ実家の様な大きな存在になっています。

その後福島君の設計事務所で沢山の建物を建てることとなります。平成18年12月、福島君と相談し、二人にとって思い出深いシャトーテル松山を11億3000万円で落札しました。シャトーテル松山は2億円かけて解体し福島君の設計で平成21年春、四国ナンバーワンと言われるハイグレードのオフィスビルに生まれ変わりました。そして今春43棟目のビル(サービス付き高齢者向け住宅84戸)が竣工しました。

その間、色々な事件がありました。創業まもなくバブル崩壊で銀行融資の総量規制が始まりビル建設プロジェクトが頓挫しました。最初の倒産の危機です。柳沢正三先輩と松田光男先輩に励まされました。何とかピンチを切り抜け、その後、建物の建設と売却を繰り返しました。『建物を一棟建てる毎に寿命が一年縮まる。』と田原和人先輩が言われていましたが私自身実感としてその意味を味わいました。分譲マンションの建設・等価交換・不動産の証券化、不動産業として人のやらないホテルの経営や飲食店の経営もしました。七転八倒苦難の連続でした。何ひとつとして上手くいったものはありません。

リーマンショックの直前では社員数も関連会社を合わせて70名ほどになっていました。会社資産75億円・個人資産15億円、そしてそれだけの負債を背負っていました。リーマンショックではご多分に漏れず経営史上最大の経営危機に見舞われました。比嘉清松先生はじめ多くの皆さんにご心配をおかけしました。これも銀行の緊急融資で何とか切り抜けることができました。私より柔道部で二年後輩の杉野常務(現在の柔実会事務局長)とネバーギブアップ精神で大恐慌と戦いました。あの時期のあの緊急融資は奇跡と言われました。

そして昨年、マル査と言われる国税庁の査察官(約70名)が突然やって来ました。自宅を含め関係先14か所が同時に強制捜査の対象となりました。戦いは市場だけではありません。映画『マルサの女』と同じ光景です。国家権力との戦いです。国家権力による6カ月に亘る追及も当局の誤解が証明され無罪放免となりました。『勝てば官軍、勝って兜の緒を締めよ。勝てば気が緩む、油断が生まれる。』八木隣一先生の口癖でした。敗者復活戦において、査察と言う災難は最大のチャンスとなりました。塞翁が馬、国費によって会社と私の身体検査が実施されたのです。

そして平成27年今年の1月に東証一部上場会社とM&A(企業の合併)に成功したのです。これは救済合併ではありません。潤沢な資金力で西日本市場を狙う戦略的合併です。本社の連結決算ですから上場会社の手足の一部になりました。ついに家業を社業にすることが出来ました。私は念願通り上場会社の雇われ社長になったのです。そして連帯保証人と言う重い十字架を下ろすことが出来たのです。今後の住宅情報館は豊富な資金力を背景に、さらに大きな仕事に取り組む事が出来ます。私自身第2の創業ととらえています。チャレンジとアドベンチャーと言う意味では、私にとって人生第3ステージの開幕(試合開始)だと思っています。

良いことも始めがあったものには必ず終わりがやってくる。悪いことも始めがあったものには必ず終わりがやってくる。私の座右の銘『禍福終始、禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬』を身をもって体験しました。語っても語っても語り切れない人生ドラマがありました。チャレンジと挫折、何度も訪れた会社の危機、それを生き延びる事が出来たのが柔道部で培ったネバーギブアップの精神でした。首絞めで落とされても参ったしない。腕を折られても参ったしない。ピンチの時励ましてくれたのも柔道部の仲間たちです。

二代目会長の水口義寛先輩が始められた一水会(毎月第一水曜日に実施されているOB会例会)があります。私は一水会に参加して、ビジネスのアドバイスはもとより、より良い人生を生きる、人生を豊かにする沢山のヒントを先輩方から戴きました。今あるのは柔道部と柔実会のおかげです。今度は私が後輩たちにお返しをする順番になったと自覚しています。多くの後輩たちのお役に立ちたい。そんな思いの今日この頃です。

最後に「松山大学柔道部」「柔実会」でもホームページを開設しております。
そちらの方もぜひご覧ください。

「松山大学柔道部」http://matsuyama-u-judo.com/
「柔実会」(Facebook)https://www.facebook.com/matsuyama.u.judo

 柔實会会長 二宮秀生

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