第366回 松温会1月新春特別例会

更新日:2016年4月12日

カテゴリ:お知らせ

第366回松温会1月新春特別例会報告
 
第366回松温会新春特別例会が1月21日(木)18時30分より、東京第一ホテル松山コスモホールにて開催された。1月の松温会は、新春特別例会は、温山会創立90周年を1年後に控え、歴代4名の温山会長をパネリストにお招きし、「過去・現在・未来」をコンセプトに様々なテーマに基づいてパネルディスカッションを開催した。

【秋川啓人松温会会長あいさつ】

【秋川啓人松温会会長あいさつ】

 冒頭に秋川松温会会長の年頭の挨拶後、「新春特別例会は、来年1月には温山会発足90周年を迎えることになる。そのキックオフイベントとして歴代会長をしていただいた先輩方にいろいろなご意見をいただきたいと思っている。今大学は少子化の問題の中で2015年度の時点で全国の大学の43%が定員割れの状態。2031年度には1,000人規模の大学が100校潰れると試算されている中で、大学がどう生き残っていくかが大きな課題だ。松山大学でもこの問題解決の為に対応しているところだと思う。そうした中で同窓会組織である「温山会」も大学をサポートしながら、温山会の活動を活性化することによって新しい時代を創造したいと思っている。現状維持を目標とすると現状は維持できない。その意味でも今日のパネルディスカッションを参考にして温山会の活動にひとつひとつ新たなものを加えながら次を目指していきたいと思う。」との挨拶があった。

【村上宏之理事長・学長あいさつ】

【村上宏之理事長・学長あいさつ】

 続いて松山大学村上宏之理事長・学長の年頭のあいさつ後、松温会新春特別例会が200名を超える温山会会員の皆様の参加を得て盛大に開催できることへのお祝いの言葉があった。「温山会が来年平成29年1月に発足90年を迎えられることになる。そのキックオフとなる行事として、歴代の温山会会長4名をお迎えし「過去・現在・未来を語ろう」をテーマにパネルディスカッションが開催される。4名の皆様から興味深い話が拝聴できることを楽しみにしている。本日の会を通して、温山会と松温会が更なる発展に繋がることを祈念したい。」との挨拶があった。

 パネルディスカッション舞台準備の幕間にステージ中央に飾られた「温山翁(新田長次郎)」の書について所有者で松山支部事務局次長の杉あゆみ氏(大42)より経緯が説明された。

【説 明】数年前に表装をし直したが素材をそのまま使用している。収納してある箱は、当時漆の塗りものを使うこともあったということですが、新田長次郎翁は「質実剛健」を旨としており、そのままの材料で表装し直したものです。漢詩はいろいろな解釈ができると言われている。書の屏風の前半では「中央で活躍している役人ばかりが注目されているが、辺境の地域ではなかなか活動が注目されない。あなたは年をとって白髪の目立つ年齢になってもなんでそんなに地方に力を入れるのでしょうか」それに対して長次郎翁は漢詩の一文をを引用して「春風に吹かれている柳の枝のように、若い人がどんどん活躍するのが喜びなのではないか」という風に書いたのではないだろうか。屏風の書は、癸亥の年1923(大正12)年、松山高等商業学校(現:松山大学)創設されたまさにその時に新田長次郎(温山翁)がしたためたもので、ロマンみたいなものを感じることができる。新田高校を創立した新田中太郎氏が叔父様である新田長次郎翁の書を表装したものが伝わり、ご縁で本日このような場でお披露目できたこと喜ばれているのではないかと思う。
 会場の準備が整い4人の温山会長(現職を含む)経験者によるパネルディスカッションが開始となった。パネリストとコーディネーターは以下の通り。
【パネリスト】
今井琉璃男:第13代会長・大学1回卒業、愛媛新聞社相談役
麻生  俊介: 第14代会長・大学7回卒業、伊予銀行元頭取
野本 武男:第16代会長・大学12回卒業、愛媛新聞社会長
興梠  安:第17代会長・大学19回卒業、一宮工務店社長

 コーディネーター:秋川啓人松温会会長(大25)、山田幸子松山支部事務局長補佐(大26)テーマ「過去・現在・未来を語ろう」

【秋川・山田コーディネーター】

【秋川・山田コーディネーター】

山田 最初に大学時代一番印象に残っていることはどんなことでしょうか。

今井 松山大学に入る前に海軍の学校へ行った。帰ってきて終戦後旧制松山高校に入り商大ができたので入学した。終戦後は何もなかったが、大学の仲間がよかった。元陸軍・海軍の軍人さんで戦車の指揮をしていた方もいれば、陸軍幼年学校出身の秀才もいた。仕事をしていた人もいた。驚いたのは三実精神の訓えだった。他の学校では教えてくれない精神だ。当時学生数も少なかったが、先生方と学生との間が親密で近かった。一番印象に残っている先生は体育の五島傳先生。昭和27年3月に体育の単位を取らないと卒業できないということで、呼ばれて面接がありいろいろと質問を受けた。

【第13代今井琉璃男会長】

【第13代今井琉璃男会長】

また出席時間数も不足していた。得意なことは何かと聞かれたので水泳が得意と言った。3月だから泳げとは言わないだろうと思ったが、松大のプールに行って泳ぐことになり、褌を外して「ふるちん」で飛び込んで寒いから潜水をしたままで25m潜って一息ついてまた潜ったら、先生がびっくりされ「もうよろしい」ということになった。それから慌てて服を着て教務課に行くと星野先生の親戚の堀さんという女性の方がいらした。早く火に当たりなさいとストーブをドンドン焚いてくれて温めてもらい、最終的に先生と話をして「よし合格」ということになった。また、先生との親密さというかゼミ終了後にお酒を飲んで、好きなことを言って質問する。会計学のことは忘れたが、お酒だけを飲んだ記憶だけがある。

麻生 大学に入ったのは戦後10年目だった。学生時代は70年前になるので思い出すのも大変だ。我々の時代は就職難の時代だった。現在は12月の段階で80%の学生の就職先が決定しているが、その頃は12月でも50%を割る時代だった。大学としても就職させるために先生方が努力されたことが印象に残っている。企業側としては指定大学からしか採用はしないという状況だったので、指導教授の先生やゼミの先生が自分の同級生や後輩のいる学校や会社へ伝手を求めて商大が指定校になるように努力していただいていたのを記憶している。辛かったのは、年2回の実力テストの順番でいい所へ推薦してくれるということになっていた。勉強しなければ就職できないという学風だった。しかし、一方では麻雀を毎日やって単位を落とすこともあった。皆が勉強を頑張ったことは間違いない。学業の面では、1年生の時、田中和夫先生から舞出長五郎「経済原論」を教えてもらった。今考えると大変昔の経済学だったんだなあと思う。ゼミは太田ゼミで、ハロッドの「動態経済学」の指導を受けたが、これも全部忘れてしまった。英語の二神先生の教材がバートランドラッセルの「Jiving in the Atomic age」という教材だった。その中の一文を人生の指針としてこれまでやってきた。

野本 二人の大先輩の話に比べると次元の低い話になるとは思う。経済とか経営は全く関係のないクラブ活動の話になる。元々武道が好きなので軽い気持ちで空手道部に入部した。これが大間違いのスタートだった。厳しい練習というと聞こえはいいが、狂気の沙汰と言うべき「いじめと指導」が半々といった猛練習の明け暮れだった。入部初日全員を前に自己紹介をせよということで「松山北高校出身の野本です」というと、先輩方が待ってましたとばかりに「聞こえーん」と言う。私も一生懸命大きな声を出したけれど、「聞こえん、聞こえん」で十分くらい名前を言わされた。想像はできると思うが、先輩の言うことには「押忍」の一言しかない。言い訳もできない。断りもできない。堪えてもくれない。手加減もしてくれない中で、何か逃げ出す方法はないか日夜悩み続けた日々でした。

【学長(左から4番目)を囲んで温山会歴代会長と松山支部長】

【学長(左から4番目)を囲んで温山会歴代会長と松山支部長】

山田 そういう時代が今の野本先輩を作り上げたんでしょうか。

興梠 昭和22年7月22日、戦後のベビーブームの真っ只中この世に生を受けた。入学当時は大学紛争真っ只中で安田講堂事件もあり東大を断念して、昭和41年予定通りわが母校松山商科大学に入学した。大学が荒れすさんだ時期で愛媛大学でも外人部隊がきて、まさかと思ったことは、夜火炎瓶が飛び交うなど大変な時期だった。スポーツが好きで弓道を2年したが段が取れずやむなく松山商科大学拳法道に入部した。体育会のお世話役をしていたので、柔道部から剣道部から兵どもを招集して警備にあたったが、相手が一枚上で校舎が2・3時間封鎖されたことがあった。学業面では諸般の事情で希望した経済学の入江ゼミには入れず、当時「仏の松野」と言われていた統計学の松野五郎先生の門を叩き入門が許された。2年から3年への進級時に54単位以上取得することはクリアできていたが、教務課に行き担当の木本さんに確認すると、英語が6単位中3単位必要だったが2単位しか取得できていなかったので、1単位もう一度取り直す必要があった。諸先輩に聞いてみると「1・2年は勉強して3年でゼミと専門を頑張って4年ではゼミだけよ」というストーリーが自分の場合全然違っていた。大学は昭和45年に一応卒業して一宮工務店に入社したが、卒業できてないんじゃないかとうなされたこともあった。やはり勉強はしていないといけないことを痛感した。ちなみに入学した時は増岡学長、卒業時は八木学長だった。大変お世話になりました。

山田 それぞれの年代でいろいろな思い出があるようですね。

秋川 皆さんは社会に出て大活躍されたわけですが、松山商科大学出身で良かったことを聞かせてもらったらと思います。

麻生 就職をして他の大学の方々と話をすると、商大の先生方のご指導が良かったのではないかと思いますが、知識・学業面でも引けを取ることなく社内で仕事ができた。経専・高商の全国の大手の企業の重要ポストには先輩が目白押しで、いろいろな営業面で助けていただくことが沢山あった。

【第14代麻生俊介会長】

【第14代麻生俊介会長】

自分の会社で認めてもらうことになったのではないか。それができたのも先輩のお引き回しがあったお陰と今でも感謝している。私は今治出身です。今治支部総会は200人以上が参加していた。通算8年半今治で仕事をした。温山会の方々に助けられて仕事ができた。温山会の皆様のお蔭で今があると思っている。松山商科大学に行ってよかったと思っている。

野本 経営・経済の2学部しかなく、在学生総数も少なく“全学一家”のような親密な感覚で、同窓意識が高く、東京・大阪に行くと同窓会の先輩方が同窓というだけで兄弟であるかのように親しく接してくれた。同窓生のいい所だろうと思う。学内活動は自由度が高く、何をやってもいい、やらなくてもいい校風でありがたかった。

今井 新聞記者や営業・広告の仕事をしてきた。すぐに相談に行ける先生がいらっしゃる。20分あったら行けますので。実際に先生にお会いしての教えというのはインターネットやメールで質問するのとは全然違う。法律問題は弁護士と一緒に法学の先生にご意見を聞くことが度々あった。東京の勤務だったときには、町工場の取材に行ったことがあるが、松大の卒業生というと経専や高商の先輩がよくしてくれました。学長さんと温山会の支部総会に行くことにして顔つなぎをし、人脈は全国展開できたと思う。びっくりしたのはニューヨークに松大の後輩がおり、英語がペラペラでこの人たちのお陰で温山会員の活動の場所は全地球展開になると思った。

興梠 先輩方とは概ね変わりないのですが、高商・経専・商大・松大と歴史と伝統ある大学。大学を選ぶとき、東の大倉高商、西の松山高商・松山商大が有名だった。また各界で活躍する先輩が多いことが入学のきっかけになった。大学も京都方面を視野に入れ4つ受けて一つ通ったが3つは行きたかったけど来るなと言われた。温山会は世代が違っても寮やゼミ、居住エリア等いろいろなつながり“商大つながり”での強い絆を感じる。今の会社も縁故で入って40数年お世話になっている。そのときの面接官の総務部長が商大の先輩で、「一宮に来い」とは言われたが「お前ひとりで3,000万円かかるぞ。それだけの気構えは出来とるか」と言われた。当時の月給は2万円くらいでしたが、「がんばります」と言った。人の縁、温山会の先輩との絆の強さやありがたみを感じる。

山田 先輩と後輩のつながり温山会長として活動するに当たり心掛けたことは何でしょうか。

野本 活動が不十分で期待に応えられず申し訳ないと思っている。お酒が飲めない体質で不向きだった上に、当時は本職が忙しくご迷惑をお掛けした。同窓会の目的は、同窓会員同士の親睦と助け合い、それと大きなのが母校支援だ。母校支援の最大最強のものは、全同窓生が社会貢献の嵩にかかっていると思っている。無責任ではありますが、温山会の皆様諸氏の活躍を祈念しております。  

今井 全国の支部総会にまめに行くということ。愛媛新聞の関連会社の愛媛電算、愛媛ケーブルテレビを受けにくる後輩がいるんですね。面接になって何とか引っ張り上げてやりたいと助け船を出すがなかなか助け舟に乗ってくれない。

当時伊予銀行の頭取が水木儀三社長、伊予鉄道社長が永野浩さん第12代温山会長、私が愛媛新聞社の社長をしていた。全国から来られて松山空港についたお客さんがタクシーの運転手さんがどこに行くのかと聞くので「松山大学へ行く」と言うと「偉い人なんやなあ、愛媛県では松大を出んと社長にはなれんのよ」と言われた。そんなことを聞くと大変嬉しい。社長になるのは難しい、社長でも副社長でも専務でもいいので頑張っていただきたい。温山会長として痛切に感じたことです。

麻生 原則的には支部同士の連携強化や大学の支援になるんだろうと思うが、私自身は現職のときだけに、会長としての活動ができてなかったことにお詫びを申し上げたい。ただ、会長在任中の出来事として、本学の教職員間のひとつの混乱がマスコミでも表面化した時代だったので、会長としてその正常化に仲裁役として入らせていただき側面から介入させていただいた。今でも印象に残っている事態だったと思っている。二度と起こしてはならないことと痛切に思う。大学として教職員としては、学生を中心に考えてほしいということを申し上げた。

山田 現職として興梠会長はどう考えていますか。

【現職の会長として】

【現職の会長として】

興梠 歴史を紐解いていくと、温山会初代会長加藤彰廉さんに始まり、本日ご出席の今井先輩が13代目・麻生先輩が14代目・野本先輩が16代目お三方はもちろん歴代会長は経済界、教育界等各界でご活躍された方ばかり、17代目として推挙され会長職を務めておりますが、先輩方の築かれたよき伝統を守りながら温山会員72,000人とともに活動したい。ちょっと違った角度とフットワークの軽さでご案内があれば支部総会へも参加している。去年は19支部と2職域支部の合計21支部に参加した。防府支部や沖縄支部、ニューヨーク支部等まだ行けてない支部も6・7箇所あるので来年3年目になるので行きたい。東海支部では豊住ダイハツ工業の豊住先輩が元気で活躍を、松下電工には三好先輩は経済界の重鎮でありすごい先輩がいらっしゃる。

今年度19支部の総会に参加した。 

とにかく、三つの貢献を果たしたい。一つは、現役の学生にどういう形で貢献できるか。二つ目は、各支部との交流・拡大と充実がどうできるか。三つ目は各地域での貢献・社会貢献を各支部・支部で『温山会ここにあり』ができるよう訴えている。 

秋川 温山会麻生先輩・興梠会長からも学生が一番というのが出ましたが、温山会はこれまでの活動と変わりません。これからの温山会は来年1月に発足90年を迎えます。また、松山支部は来年60周年を迎えます。歴代の温山会長として今後の温山会はどうすべきか。また、大学の創立100周年に向けて大学とどういう関係を築くべきかお考えを聞かせてください。

今井 温山会90周年、松温会60周年、大学100周年に何をやればよいかということですが、温山会の皆様にお願いしたいことは、旧松山高商の校歌は越智俊夫学長の時代に新しい学歌になった。普遍的なグローバルな歌かもしれないが、個性的に言うと非常に乏しい。旧高商校歌は非常に個性的で作詞者の沼波武夫(瓊音)、瓊音(けいおん)先生は第一高等学校・東大教授で全国に大変有名な人だ。瓊音(けいおん)先生の弟子には、元首相岸信介さん、愛媛3区出身で今松次郎代議士、安岡正篤先生がいる。その歴史を調べて見た。波沼先生はとっくに亡くなっているし、加藤初代学長もお兄さん恒忠さんも亡くなっているので聞くことができなし資料も残っていないが、個性的な歌を時々思い出して歌ってもらうといいと思う。「松山商大 この名に栄えあれ」は全く個性的で奥深い歌。他の大学でもそうだと思います。もうひとつは、学生諸君も温山会もこれからは進歩していかなければいけない。何を進歩させるのかというと、イノベーションというか。我々の学生時代は戦後何もなかったから何を創っても売れた。何を作っていくか、何を作って人の為になっていくかを真剣に考えていただきたい。コンピュータの時代ですが、創るのも人間、使われるのも人間、使うのも人間であります。温山会の発展にも徹底して使っていただいて、徹底して将来の学問ですから頑張っていただきたい。

麻生 沢山の若い温山会員が生まれているが、その若い人たちと高齢者とがどう一体化していけるかということも大切。また、温山会に女性の部の役員を作るとかして女性や若手が力を発揮できる場や役割、そういったニーズを作ることが大切ではないか。今ひとつは、温山会は90周年を迎えるということで、温山会として大学と共催で全支部とは言わないが、県内主要な支部で90周年記念の講演会を実施し、「松山大学」という認識を卒業生ではない一般の方々に参加してもらい松山大学を認識してもらうこともいいのではないか。100周年を迎える大学と温山会との関係構築については、温山会として大学100年に向けて生き残りを懸けて何が必要か温山会員に「本学のあり方」についてアンケート調査してまとめる。温山会としての提言とでもいうような皆さんのご意見を集約できれば、今後の『松山大学のあり方・生き残りのあり方』をまとめることができればいいじゃないかと思う。愛媛大学が社会共創学部を新設して、地域に対して関係を深めている。新しい大学としての歩みを進め始めたと思うが、本学には専門的な研究をされている先生がいらっしゃるので、愛媛の問題をテーマにして地域に提言して、側面から松山大学の存在感を高めることができれば学生にも恩恵があるのではないか。本学100周年に向けて温山会としての一体感を深める意味でも大きな額ではなくたくさんの方が記念として、大学に若干の寄付をしてどうかと思う。 

【第16代野本武男会長】

【第16代野本武男会長】

野本 一番大きな問題は、年々我々の年代の何倍もの卒業生が排出されている。もはや高商・経専と同じ時代のような濃密な同窓意識はないのではないか、希薄化は免れないだろうと思う。卒業回毎のグループ会が現実的で、そうせざるを得ない状況がある。総会は事務的な総会事項の処理と年に一度の懇親の場と割り切って、とにかく旧交を温め合うことが現実的だろうと思う。

山田 歴代会長の提言を踏まえ興梠会長、今後の温山会運営について決意をお願いします。

興梠 先輩のご意見を参考にさせて頂いて前に進んでいきたいと思っている。2013年に松山大学が90周年を迎えて遅れること4年、2017年1月に温山会が創立90周年を迎える。現在温山会で三つの小委員会を立ち上げていろいろな計画を練っているところです。いずれにしても、大学と同様に次なる100周年への通過点だと考えている。限られた予算の中でどう90年を実施するのかを検討しているところだ。先ほどからの三先輩のご意見も参考にしていきたい。決定したら皆様方にも披露したいので、物心ともに協力をいただきたい。学生数の減少、少子化の中での生き残りを懸けている。独立行政法人となっているが昔の国公立大学・私立大学ともに生き残りをかけているが、われわれ温山会として何ができるのか考えていきたい。苦楽を共にして今まで以上に近い関係になって何でも話せる関係になることを切望している。圧力団体ではなく、常に支援とか提案とかをする中で近くなって行くのがいいんじゃないかと思う。学長には温山会活動に熱心でご理解をいただいて、ほとんどの支部総会に参加していただいていることに敬意を表している。教職員の皆様にも井の中の蛙にならず、それぞれの持ち味を生かして外に打って出てともに「松山大学・温山会ここにあり」とやっていきたいので協力をいただきたい。

山田 言洩らしたこと、これだけはもう一度しっかりと言っておきたいということがあればお願いします。

今井 村上学長・森本前学長もいらっしゃいますので、大学の先生方へお願いしたい。少子化と皆さん心配しますけど、全世界には65億。もうすぐ70億になる。その半分、半分となっていっても10億人くらい子供は増えていく。中国は一人っ子政策をやめたのですぐ1億や2億は増える。だから、何も少子化と心配することはない。後輩となる留学生は、6年ほど前に来て去年経済学部大学院で経済学博士号を取って帰った。先日もらった新年の年賀状では、大学の先生になったということで大いに活躍している。世界中から学生を集めたらいいので心配ないということを先生方に伝えてほしい。温山会の皆さんが後押しをしていけばいいと思う。圧力団体ではないのですが・・・。

【第17代興梠 安会長】

【第17代興梠 安会長】

興梠 経専時代に剣道部が日本一になった。最近では弓道、マラソン、女子駅伝「松山大学ここにあり」と活躍されている。益々文武両道を高めて頂きたい。杜の都駅伝や富士山女子駅伝の応援に行ったりする機会があった。東京農大や大東文化等には応援団やチアガールもいた。我が母校は寂しい。今年1月応援団の新年会に参加した。是非とも復活させたいなと思う。応援団は大学のひとつの華です。現役の学生諸君がどう反応するかですが。

山田 本日は来年の温山会発足90周年のキックオフイベントとして歴代の温山会会長に出席して頂き、今後の温山会のあり方についてご提言、ご意見をいただきました。ありがとうございました。それではパネルディスカッションを終了いたします。パネリストの方々に今一度拍手をお願いします。

【青木徳島支部長による乾杯】

【青木徳島支部長による乾杯】

 懇親会の乾杯のご発声は温山会徳島支部青木伸介支部長。青木伸介支部長は2015年11月7日の徳島支部総会で支部長に選任されたばかり、大学25回卒のフレッシュ支部長。フレッシュ支部長の “松山大学・温山会、90周年事業の成功を祈念”した乾杯が盛大に行われた。

懇親会に入り、美味しい料理とお酒をいただき、新年の挨拶や名刺交換、交流が精力的に進められた。

宴たけなわの中、松温会からのお年玉「お楽しみ抽選会」が始まった。6名の当選者には、「フジの商品券」が贈呈された。

 應援團の中野良雄(大23)氏による松山大学・温山会90年へのエールが贈られた。

【未来さんによる中締め】

【『未来さん』による中締め】

中締めは大学64回(平成27年3月卒業)の曽我部未来さん、本日のパネルディスカッションのテーマ「過去・現在・未来を語ろう」というテーマにもあやかった名前の「未来」さん、超ヤング「未来」のフレッシュな中締めで会は終了した。

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